毎月積み立てでお得に史跡巡り(PR)
定期的に史跡巡りをするなら、旅のサブスクがおすすめです。
HafH(ハフ)は、月額定額制で全国の民泊やホテルに宿泊できる旅のサブスクです。
- 繁忙期も休日も平日と同一料金
- 3か月継続ですべての宿泊料金が割引になる
- キャンセル料が前日まで無料
- 使わない月もコインが貯まる
- 毎月定額でお得に泊まれる

北関東の戦い(戊辰戦争)に関する大河ドラマ(PR)
懐かしの大河ドラマを見るならU-NEXT一択です。
U-NEXTで無料会員登録すれば600ポイントもらえます。
1か月の無料期間が過ぎれば会費がかかりますが、毎月1200ポイントがもらえます!
見放題もありますのでお得です!
- 花神(1977年)
- 勝海舟(1974年)
- 青天を衝け(2021年)
- 徳川慶喜(1998年)
↓これらのドラマを視聴する↓

(2023年9月24日時点の情報です)
東善寺

東善寺は、小栗上野介の菩提寺で、境内には小栗上野介父子の墓があります。小栗上野介は、幕末の徳川幕臣で、遣米使節として渡米し横須賀造船所を建造しました。東郷平八郎は日露戦争での勝利は小栗上野介が幕末に日本の近代化に貢献したことが大きいと証言しており、日本近代化の父と言われています。東善寺は、小栗上野介がアメリカから持ち帰ったネジや、彼の肖像画などを展示しています。
小栗上野介は鳥羽伏見の戦いで徳川慶喜が江戸に逃げ帰った後、徹底抗戦を主張しましたが、徳川慶喜はすでに恭順を決めており、職を解かれ、幕臣を辞任しました。この地で穏やかな日々を送ろうとしましたが、世直し一揆に対し鉄砲を使ったことが新政府軍に伝わり、捕縛され斬首となりました。
勝沼の戦い(甲府城跡)

慶応4年(1868年)3月6日、江戸に向かう新政府軍の東山道鎮撫使であった板垣退助率いる土佐藩迅衝隊や鳥取藩山国隊などが甲府城を先に占領しました。旧幕府軍は近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊が甲府城に向かっていましたが、先に新政府軍が入城した為、勝沼で野戦を行うことになりました。甲陽鎮撫隊はなすすべもなく敗れ、近藤勇は負傷し、流山に敗走しました。
甲府城跡は、明治維新の歴史を伝える貴重な史跡です。現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣や堀の一部が残っています。また、出土した金箔鯱瓦や飾瓦は県指定文化財になっています。
勝沼の戦い(柏尾古戦場跡)

柏尾古戦場跡は、戊辰戦争において、新選組と会津藩兵からなる甲陽鎮撫隊と、土佐藩の迅衝隊や鳥取藩の山国隊などの新政府軍が激突した場所です。甲陽鎮撫隊は近藤勇が率いており、甲府城を手に入れようとしていましたが、板垣退助の迅衝隊によって甲府城は先に占領されました。その後、甲陽鎮撫隊は甲州街道沿いの柏尾宿で新政府軍と交戦しましたが、大敗して流山へ敗走しました。
柏尾古戦場跡は、現在の山梨県甲州市勝沼町にあります。国道20号沿いに近藤勇の像が立っており、甲州における唯一の戊辰戦争の跡であることを示しています。また、近くには大善寺という国宝の本堂を持つ古刹があります。この寺院は近藤勇が本陣にしようとした場所ですが、寺側が拒否したために山門前に布陣したという逸話があります。
市川国分台総寧寺

市川国分台総寧寺は、戊辰戦争において、旧幕府軍の拠点となった寺院です。慶応4年閏4月3日(1868年5月24日)、新政府軍と旧幕府軍が市川・船橋で激突した市川・船橋戦争では、旧幕府軍の大鳥圭介が国府台に本陣を置き、総寧寺にも兵を駐屯させました。しかし、新政府軍の攻撃により、旧幕府軍は市川・船橋を放棄して北上しました。その際、総寧寺は新政府軍によって焼き討ちされました。
梁田の戦い(梁田戦争戦死塚)

梁田戦争戦死塚とは、梁田の戦いで倒れた旧幕府軍の戦死者の墓です。梁田の戦いは、明治維新の初期に行われた戊辰戦争の一局面で、新政府軍と旧幕府軍が栃木県足利市の梁田宿で衝突した戦闘です。この戦闘では、新政府軍の奇襲により旧幕府軍は大敗し、約60人が戦死しました。
梁田戦争戦死塚は、戦いの直後に渡良瀬川の河原に建てられましたが、洪水によって損壊しました。その後、場所を移して現在は長福寺の境内にあります。石碑には「戦死塚」と「慶応四戊辰年三月九日 戦死六十四人此地埋 梁田宿」と刻まれています。この石碑は足利市の重要文化財に指定されています。
近藤勇流山陣屋跡

近藤勇流山陣屋跡は、新選組の局長であった近藤勇が最後に本陣を置いた場所です。戊辰戦争で官軍に敗れた近藤勇は、会津へ向かう途中で流山に陣を敷きましたが、新政府軍に包囲されて自首しました。近藤勇はここで盟友の土方歳三と最後の別れをしました。
また、毎年4月には「流山新撰組まつり・勇忌」が開催されています。
板橋宿平尾脇本陣跡

板橋宿平尾脇本陣跡とは、新選組の局長であった近藤勇が捕らえられた後、幽閉されていた場所です。近藤勇は、慶応4年(1868年)4月4日に板橋宿本陣で正体を見破られて捕まりました。その後、処刑間近の4月23日まで、平尾脇本陣を務めた豊田市右衛門の屋敷に監禁されました。この間、近藤勇は豊田家の孫娘と親しくなったり、見張り役の横倉喜三次と交流したりしました。また、助命を願っていた薩摩藩士の有馬藤太とも面会しました。
現在は、平尾脇本陣・豊田家屋敷跡には建物はなく、マンションが建っています。マンションの下には、「板橋宿平尾町脇本陣」と刻まれた石碑と案内板があります。
近藤勇の墓

近藤勇の墓は、新選組の局長であった近藤勇が処刑された後に建てられた墓です。近藤勇は、戊辰戦争で旧幕府軍に参加しましたが、流山で捕らえられて板橋宿に送られました。そこで、新政府軍の本陣に幽閉され、そして、1868年4月25日に板橋刑場で斬首されました。
この墓は、新選組隊士の永倉新八が発起人となって作られました。函館で戦死した副長の土方歳三をはじめ、百十名にのぼる新選組隊士と共に供養されています
満福寺

福寺は、旧幕府軍の別動隊の指揮官であった土方歳三が、第一次宇都宮城攻城戦において陣を敷いた寺院です。満福寺は、宇都宮から10km南東に位置する寺で、天台宗の寺院でしたが、江戸時代には幕府の朱印寺となりました。土方歳三は、伝習隊歩兵第一大隊や桑名藩兵、回天隊、新選組など約1,000人の兵を率いて、満福寺から出陣しました。土方歳三は、最新兵器とフランス式兵術を駆使して新政府軍を退け宇都宮城を奪取することに成功しました。
しかし、最終的には新政府軍の攻撃を受け、土方も負傷し、城を明け渡して当初の目的地である日光方面へ退却しました。
二荒山神社

二荒山神社は、宇都宮市の中心部にある神社で、宇都宮の総鎮守とされています。この神社は、平安時代に創建されたと伝えられており、武田信玄や徳川家康などの武将にも崇敬されました。二荒山神社は、戊辰戦争においても重要な役割を果たしました。
二荒山神社は、旧幕府軍の伝習隊が新政府軍の攻撃から宇都宮城を守る際に、砲台陣地として使用されました。伝習隊は、近藤勇や土方歳三などの新選組隊士や桑名藩兵などからなる精鋭部隊でしたが、最終的には新政府軍に敗れて日光方面に撤退しました。
日光東照宮

日光東照宮は、江戸時代に徳川家康の霊廟として建立された神社です。
江戸城無血開城の後、旧幕府を脱走し新政府軍に徹底抗戦をするため大鳥圭介率いる伝習隊は、市川で土方歳三と合流し、この日光東照宮に向かいました。
旧幕府軍は途中宇都宮城を攻撃し、一時は陥落させましたが、その後反撃に転じた新政府軍が奪取し、今市などで戦闘をしながら、日光に到着しました。
追撃してきた新政府軍は、日光東照宮の宮司らに対し「脱走軍を日光から撤退させなければ総攻撃を仕掛ける」と恐喝しました。
東照宮側が説得をおこない、旧幕府脱走軍もこれに同意して日光から立ち退き、戦火を逃れました。
コメント