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大阪城

大阪城は、鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍の本拠地となった城です。
鳥羽伏見の戦いは、1868年1月27日から1月30日にかけて、京都南郊の鳥羽・伏見で行われた戊辰戦争の初戦です。
戦いは、旧幕府軍が薩摩藩を討伐するために京都へ向かったことに対し、新政府軍がこれを阻止しようとしたことから始まりました。
戦闘は、鳥羽街道と伏見街道の二手に分かれた旧幕府軍と、それぞれを迎え撃った薩摩・長州・土佐などの新政府軍との間で激しく展開されました。
新政府軍は、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命し、錦旗を掲げて進軍しました。これにより、旧幕府軍は朝敵となりました。
旧幕府軍は、新政府軍の猛攻と畿内諸藩の寝返りにより敗北し、徳川慶喜は大坂城から江戸へ逃亡しました。
大阪城は、鳥羽伏見の戦い後に新政府軍に占領され、1868年4月2日に放火されました。この際に多くの死者が出たとされ、その遺骨は「城中焼亡埋骨墳」という墓に埋められました
鳥羽伏見の戦い勃発の地

鳥羽伏見の戦いが勃発した地は、鴨川に架かる小枝橋付近です。
ここで通す通さないの押し問答の末、無理やり通ろうとした旧幕府軍へ向けての新政府軍の大砲が轟き、銃撃が始まりました。現在は京都市南区にあり、石碑や記念碑が建てられています。
伏見奉行所跡

伏見奉行所跡は、江戸時代に伏見の町を統括していた幕府の役所でした。慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いが起こり、旧幕府軍の本陣となりましたが、薩摩藩の砲撃により炎上しました。その後、石碑が建てられました。
鳥羽伏見の戦いは、戊辰戦争の初戦で、新政府軍と旧幕府軍が京都南郊で衝突した戦いです。新政府軍は、薩摩藩や長州藩などの勤王派の諸藩で構成されていました。旧幕府軍は、徳川慶喜を支持する幕府陸軍や会津藩、新選組などでした。
鳥羽伏見の戦いは、慶応4年(1868年)1月3日から1月6日まで続きました。最初の衝突は、鳥羽で起こりました。旧幕府軍は、朝廷への訴えのために京都へ向かおうとしましたが、鳥羽と伏見に布陣していた新政府軍と交通を巡って小競り合いを起こしました。やがて本格的な戦闘に発展しました。
伏見奉行所は、この戦闘の中心的な場所でした。旧幕府軍は、会津藩や新選組など約1500人が奉行所に立てこもりました。対する新政府軍は、御香宮神社に本陣を置いた薩摩藩や長州藩など約800人が攻撃を仕掛けました。両者は約150メートルの距離で熾烈な銃撃戦を展開しました。
旧幕府軍は多くの死傷者を出しながらも突撃を繰り返しましたが、午後8時頃、薩摩藩砲兵の放った砲弾が伏見奉行所内の弾薬庫に命中し奉行所は炎上しました。新政府軍は更に周囲の民家に放火し、炎を照明代わりに猛烈に銃撃しました。旧幕府軍は奉行所から撤退しました。
この戦闘で旧幕府軍は約280人が戦死し、新政府軍は約110人が戦死しました。鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わり、旧幕府軍は大坂へ退却しました。この戦いは、戊辰戦争の始まりとされています。
伏見奉行所跡は現在、京都市伏見区西奉行町にあります。石碑が建てられていますが、奉行所の建物は残っていません。近くには、鳥羽伏見の戦いに関係する史跡が多くあります。例えば、新政府軍の本陣だった御香宮神社や、伏見城跡、伏見土佐藩邸跡などです。
淀千両松の戦碑

淀千両松の戦碑は、鳥羽伏見の戦いで激戦地となった場所に建てられた慰霊碑です。鳥羽伏見の戦いは、1868年1月27日から30日にかけて、京都南郊の鳥羽・伏見で行われた、新政府軍と旧幕府軍の最初の戦闘でした。
淀千両松は、豊臣秀吉が植えたと言われる見事な松で、旧幕府軍が官軍を迎撃した場所でした。しかし、官軍の砲撃や奇兵隊の攻撃により、旧幕府軍は多数の死傷者を出して敗退しました。新選組では、井上源三郎ほか20数名が戦死しました。
淀千両松の地には、戊辰役東軍戦死者慰霊碑が立っています。この碑は、明治40年に建立された戊辰役東軍戦死者埋骨地から移されたものです。
淀城跡

淀城は、江戸時代に幕府の要職である老中稲葉正邦が城主となった城で、京都の南郊にあります。鳥羽伏見の戦いは、戊辰戦争の初戦で、1868年1月27日から1月30日にかけて、新政府軍と旧幕府軍が京都南郊の鳥羽・伏見・淀で激突した戦いです。
この戦いでは、旧幕府軍は新政府軍の「錦の御旗」に動揺し、千両松で新選組などが奮戦しましたが、近代兵器の一斉射撃により敗退しました。旧幕府軍は淀城に逃げ込もうとしましたが、淀藩は城門を閉ざして拒絶しました。淀藩は新政府軍と内通しており、城主の稲葉正邦は江戸に不在でした。淀城に拒否されたことで、旧幕府軍の敗北が決定的になりました。
淀城は明治維新後に廃城となり、現在は淀城址公園として整備されています。本丸の石垣と内堀の一部が保存されています。
楠葉台場跡

楠葉台場跡は、幕末の鳥羽伏見の戦いで使われた砲台跡です。淀川の左岸にあり、京都を守るために松平容保が建設しました。慶応4年(1868年)に旧幕府軍が新政府軍と戦ったとき、楠葉台場は小浜藩が守備していましたが、淀川の右岸にあった高浜台場や梶原台場が裏切って砲撃を始めたため、旧幕府軍は敗走しました。楠葉台場は国の史跡に指定されており、現在は楠葉台場跡史跡公園として整備されています。
高浜砲台跡

高浜砲台跡は、幕末の鳥羽伏見の戦いで使われた砲台跡です。淀川の右岸にあり、京都を守るために幕府が建設しました。慶応4年(1868年)に旧幕府軍が新政府軍と戦ったとき、高浜砲台は津藩(藤堂藩)が守備していましたが、勅使に説得されて新政府軍に内応し、対岸の楠葉砲台に砲撃を開始しました。これにより、旧幕府軍は大混乱に陥り、大坂へ敗走しました。高浜砲台跡は国の史跡に指定されており、現在は高浜公会堂の近くに碑が立っています。
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