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桝屋(古高俊太郎邸)跡

明治維新を語るうえで大きな意味をもつ池田屋事件。そのきっかけとなった「古高俊太郎邸跡」の石碑は、京都市下京区河原町通四条上ル一筋目東入南側にあります。新選組監察方の山崎丞、島田魁らは、小道具屋に扮した尊王攘夷派の間者であった桝屋喜右衛門こと古高俊太郎の存在を突き止めました。
旧前川邸

旧前川邸は、新選組の屯所となった建物で、京都市左京区壬生東大路町にあります。普段は内部は公開されていませんが、近くに旧八木邸もあり、こちらも旧新選組屯所であり、内部も見学できます。
旧前川邸は、池田屋事件においては土方歳三が枡屋喜右衛門こと古高俊太郎を拷問にかけた場所として知られています。屋根裏から縄をかけたあとが現在も残っています。
金戒光明寺(会津藩本陣跡)

金戒光明寺は、幕末には松平容保の会津藩の京都守護職会津藩一千名の本陣にもなり、墓地には会津藩殉職者が埋葬されていました。
新選組も会津藩預かりという身分でここに出入りしていました。
池田屋騒動跡

池田屋騒動は、幕末の京都で起こった事件で、長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士が京都で会合中に新選組に襲撃された事件です。池田屋騒動跡は、京都市中京区の三条通り沿いで現在居酒屋となっていますが、外側に石碑があり、事件が起こった場所を示しています
長州藩邸跡

池田屋事件において、旧長州藩邸は、攘夷浪士たちが襲われた際に、逃げ込もうとしたり助けを求めた場所です。しかし、門が閉まっており藩邸の中に入れず、多くの浪士が討ち死にしました。
東山警察署 祇園交番(八坂神社祇園町会所跡)

尊王攘夷派の会合の情報を受け、会津藩に報告した後、ここが捜索の拠点となりました。
新選組はここで会津藩と待ち合わせをして捜索する予定でしたが、一刻を争うと判断した近藤勇が決断し、予定の一時間前に単独で捜索を開始しました。近藤隊10名、土方隊24名の捜索隊が捜索のためここから出発しました。
山本覚馬・八重邸宅跡(吉田敏麿殉難の地)

吉田敏麿は、幕末の長州藩の活動家で、松陰門下の一人で、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一とならび、松下村塾の四天王と言われた秀才でした。
池田屋事件では襲撃を受け、長州藩邸に助けを呼びに行ったとところ門が閉まっており、門外で戦闘になり、深手を負って自刃したと伝えられています。
山本覚馬は会津藩の砲術士で、八重はその妹になります。
対馬屋敷跡

対馬藩主は長州藩主と親戚関係であり、桂小五郎も宗家家臣の大島友之允らと懇意にしており、寓居のひとつとなりました。池田屋事件の際も、桂小五郎は一度池田屋に行ったが、時間が早すぎたため、対馬藩邸に帰り、難を逃れたと本人が書き残しています。
角倉邸跡(望月亀弥太終焉の地)

望月亀弥太は、幕末の土佐藩士で、土佐勤皇党の一人でした。また望月亀弥太は、坂本龍馬とも幼馴染でありましたが、池田屋で新選組に襲われ、重傷を負って自刃しました。
終焉の地は木屋町通横を流れる高瀬川を開発した角倉氏邸の入り口あたりとされています。
六角獄舎跡

六角獄舎跡は、平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする京都の牢獄で、正式名は「三条新地牢屋敷」です。移転を繰り返して、宝永5年(1708年)の京都大火以降に中京区六角通神泉苑西入南側に移転されてからは「六角獄舎」、「六角獄」、「六角牢」などと呼ばれるようになりました。
この場所は、1754年に医学者・山脇東洋が日本で初めての人体解剖を行った場所としても知られています。
池田屋事件の際、古高俊太郎が捕らえられ、それ以前にも生野の変の首謀者で福岡藩士の平野国臣、天誅組の変の水郡善之祐(河内勢)、乾十郎(十津川勢)などが捕らえられていましたが、池田屋騒動の一か月後の禁門の変で大火災が起こり、六角獄舎近くまで火が回ってきたため、これらの過激派の攘夷派が脱走することを恐れ、判決が決まっていないまま33名を斬首しました。
蛤御門(京都御所)

「蛤御門の変」は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件です。長州藩が京都に出兵し、会津・薩摩などの藩兵と蛤御門付近で戦って敗れた事件です。禁門の変とも呼ばれます。
長州藩の出兵の名目は、8月18日の政変、池田屋事件などの失地回復のための挙兵でしたが、御所に刃を向けたことで賊軍となり敗れたため、長州藩の家老3名が切腹となりました。蛤御門には今でも銃弾の跡が残っています。
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